【奈良県】吉野町

概要

吉野町 桜

乱れた武家政権を改め、天皇親政により政治を正すことを目指した後醍醐天皇は、鎌倉幕府の討幕を計画します。皇子の大塔宮護良親王は、各地の武士に蜂起を呼びかける令旨を出し、自らも吉野山を城塞化して挙兵しました。この時の堀切の跡などが吉野山には今ものこされています。また、吉野落城の際、身を挺して皇子をまもった村上父子の墓が今も祀られています。

討幕後、親政をはじめた後醍醐天皇でしたが、次第に足利尊氏らと対立が深まります。ついには尊氏に幽閉されますが、窮地を脱して、一旦、吉水院に身を隠し、次いで金峯山寺蔵王堂西側にあった実城寺を皇居として、吉野に南朝をひらいたのでした。

後醍醐天皇崩御後、京都奪還をめざす南朝でしたが、足利方に戦線がおされてしまいます。戦況打破のため、南朝の武将・楠木正行は、後村上天皇に最期の参内をし、如意輪堂の板扉に辞世の歌などを刻むなどして、四條畷に出陣、戦死したのでした。

吉野は南朝の中心的な拠点。南朝にまつわる史跡や伝承、法要が今なお残っています。

金峯山寺

大塔宮護良親王が鎌倉倒幕に挙兵した際の本陣跡であり、後醍醐天皇が亡くなる前まで過ごした吉野朝宮跡を境内にのこす寺院です。境内には、護良親王が鎌倉幕府軍と戦った際、絶体絶命となった親王の身代わりとなって忠臣・村上義光が自刃した場所・二天門跡がのこります。また、吉野朝宮跡地は今、南朝妙法殿が建立され、南朝四帝らが祀られています。

 金峯山寺は金峯山寺修験本宗の総本山として知られ、本堂・二王門は国宝に、本尊の蔵王権現や金剛力士立像等は国指定重要文化財となっています。平安時代中期より多くの寺領・荘園を有し、吉野大衆とよばれる僧兵、そして全国からあつまる山伏たちを擁していました。この経済力と武力、加えて山伏の諜報力が、護良親王や南朝を支えました。毎年10月15日には、御聖忌法要が行われ、南朝妙法殿にて南朝四帝ならびにその忠臣らを慰める法要が営まれています。

金峯山寺蔵王堂
金峯山寺蔵王堂
南朝朝宮跡
南朝朝宮跡

如意輪寺

後醍醐天皇の勅願寺として定められた寺院であり、本堂の裏山に後醍醐天皇の塔尾陵(延元陵)があります。後醍醐天皇の陵墓は、京都奪還を望んだ後醍醐天皇の遺志を尊重し、京都の方向である北を向いて築かれています。

 また、この寺院は南朝の武将・楠木正行ゆかりのお寺としても知られます。楠木正行は、1348年に四條畷で高師直との決戦に挑んだ武将です。四條畷に出陣する際、楠木正行及び143名は後村上天皇に謁見したのち、後醍醐天皇陵に詣で、如意輪堂の扉に「返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」と矢じりで辞世の歌を刻んだと『太平記』は記します。 毎年9月27日には、後醍醐天皇を偲ぶ正辰祭・如意輪寺天皇忌が行われ、天皇の尊霊をなぐさめています。

如意輪寺
如意輪寺
如意輪堂に辞世を書す
如意輪堂に辞世を書す

吉野神宮

明治22年明治天皇は後醍醐天皇の偉業を深く偲び、吉野神宮の創立を命じました。明治25年に執り行われた鎮座の際には霊代の奉納と共に、それまで吉水神社に奉安されていた後醍醐天皇の尊像も吉野神宮の本殿に奉還されました。
大鳥居をくぐり、こんもんとした桜やかえでの林をぬけて境内へ入ると、明るく広い台地が目の前に広がります。
祭神は後醍醐天皇。摂社は日野資朝、児島高徳など7人の功臣たちをまつっています。
社殿は約10年を費やして1932(昭和7)年に改築が完成。古今の神社建築の粋を集めた、総桧造りの見事な建物です。
この地は、大塔宮(後醍醐天皇の皇子、護良親王)が吉野に挙兵されたおり、北条幕府方に占拠され本陣になったと伝わるところ。
正北面を向く本殿は、京を恋しく思われた後醍醐天皇の心情をうつしたのだといわれています。展望がよく、ここから葛城、金剛の山並みが見渡せます。

吉野神宮
吉野神宮