【奈良県】川上村

概要

若年神社
若年神社

川上村は、560余年にわたり一度も欠くことなく、毎年2月5日、後亀山天皇(第99代)の玄孫自天皇(自天王)を偲ぶ「朝拝式」(朝賀の儀)を執り行っている。
後醍醐天皇が開いた朝廷を南朝と呼ぶのに対し、南北朝合一後、両統迭立の約束を足利幕府が反古にしたことに抗議して南朝側が再び吉野の奥地川上村に隠り開いた朝廷を後南朝と称す。
後南朝初代の天皇は尊義天皇(尊義王)、二代目が自天皇である。しかし、自天皇は、神璽奪取、御首討ち取りにより足利幕府に主家再興の約束を取り付けた赤松家浪人の策謀によりあえない最期を遂げる。
これを知った川上郷士が敵から天皇の御首を奪い返し、金剛寺に葬った。翌年より、天皇の遺品を本人に見立てて朝賀の儀式を執り行うようになったのが、今に伝わる朝拝式(御朝拝:おちょうはい)である。

若年神社(十二社神社)

御座磧と金剛寺の間にある舞場地区に鎮座する神社で、祭神若年神と十二社権現を合祀する。
北和田・柏木・上多古三区の氏神で、御座磧近くの北和田領の飛び地にある。
磧から石段を上ると境内に着く。本殿壁面には舞楽の様相を表す彩色画が描かれている。建立位置からして朝拝式(御朝拝:おちょうはい)と関わりが深い神社であったことが窺える。
磧で水行を取って神社に上がり、御朝拝 に臨んだのであろう。舞楽の奉納が朝賀の儀式にふさわしい雰囲気を醸し出していたことも想像できる。

若年神社
若年神社

三之公御所跡(八幡平)及び行宮跡(隠平)と尊義王廟所

元南朝方の皇族の一人尊義王(小倉宮の皇子)が南朝の復興を願い、二人の皇子(尊秀王=自天王と忠義王=河野宮)を伴い、三種の神器の一つ神璽を携えて一時逃れていた近江国甲賀郡から再び神之谷領三之公に戻り隠平に入った。
ここに行宮を置いて何年か暮らした。近辺に屋敷は20余か所あったと伝わる。

その後、約8㎞南方の三之公(八幡平)に移りここを御所とされたが、そこで薨去され隠平に葬られた。
隠平には、明治時代に建てられた行宮跡の碑と尊義王の御陵(お墓)がある。

尊義王廟所(隠し平)
尊義王廟所(隠し平)