南朝の歴史

南朝の歴史について

1221年【承久の乱】後鳥羽上皇は鎌倉幕府の執権北条義時の討伐を計画するが敗北。幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷方から没収した所領に新補地頭を置く。
1272年【後嵯峨上皇崩御】後嵯峨上皇は、後継者を指名せず鎌倉幕府の意思に従うことだけ示して崩御したことから、持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)で後継者争いが起こる遠因となる。
1274年文永の役】モンゴル帝国、高麗連合軍が対馬壱岐、肥前(佐賀県・長崎県)、博多湾に襲来したが撤退する。
1281年弘安の役】モンゴル帝国二度目の襲来。防塁等による警備の強化と暴風雨の発生により再び撤退する。
1293年鎮西探題】鎌倉幕府は福岡県博多に鎮西探題を設置する。
1318年【後醍醐天皇即位】大覚寺統の後醍醐天皇が即位。甥の邦良親王が成長するまでのつなぎの扱いで、邦良親王と持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)が皇太子になる。
1324年【正中の変】討幕計画が発覚。日野資朝が佐渡島(新潟県)へ流罪になる。
1326年邦良親王が死去。量仁親王(後の光厳天皇)が皇太子になる。
1331年【元弘の変】討幕計画が発覚。後醍醐天皇は笠置山京都府笠置町)へ逃れ、挙兵を呼びかけるが包囲される。楠木正成が挙兵(赤坂城の戦い)。鎌倉幕府は光厳天皇を擁立する。後醍醐天皇は笠置山を脱出するが幕府軍に捕えられる。(笠置山の戦い)
1332年後醍醐天皇は隠岐(島根県)に配流される。護良親王は吉野奈良県吉野町)で挙兵する。楠木正成は赤坂城を奪還。
1333年【鎌倉幕府の滅亡と建武の新政】赤坂城の落城後、楠木正成は千早城大阪府千早赤阪村)に籠城(千早城の戦い)、後醍醐天皇は隠岐を脱出し船上山(鳥取県)で挙兵。追討するため鎌倉幕府から派遣された足利尊氏が離反し六波羅探題(京都府)が滅亡。新田義貞と東国武士が鎌倉幕府を滅亡させる。後醍醐天皇は建武の新政を開始、鎌倉将軍府(神奈川県)には成良親王と足利直義、陸奥将軍府(宮城県)には義良親王と北畠親房、顕家親子が派遣される。
1335年【中先代の乱】信濃(長野県)で北条時行が挙兵して鎌倉を奪還。足利直義が護良親王を殺害。後醍醐天皇の命令もなく足利尊氏が出陣して乱を平定。尊氏は京都に戻らず勝手に恩賞を与えるなどしたため新田義貞の追討軍が送られる。尊氏は新田義貞を退ける(箱根・竹下の戦い)。
1336年【南北朝の分裂と室町幕府の成立】尊氏は京都へ進軍するが、大阪府で北畠顕家・新田義貞・楠木正成に敗れ(豊島河原合戦)九州へ。多々良浜(福岡県)の戦いで立て直した尊氏は、湊川(兵庫県)の戦いで新田義貞と楠木正成に勝利、楠木正成は戦死する。後醍醐天皇は比叡山(滋賀県)へ退去後に降参。尊氏は持明院統の光厳上皇と弟の光明天皇を擁立(北朝)して建武式目を制定する。後醍醐天皇は吉野(奈良県吉野町)に脱出し、朝廷(南朝)を開く。後醍醐天皇は恒良親王と尊良親王、新田義貞を北陸へ派遣する。
1337年【金ヶ崎城の戦い】金ヶ崎城(福井県敦賀市)が落城し、新田義貞は脱出する。尊良親王は自害し、恒良親王は捕まえられる。霊山城(福島県)の北畠顕家は、義良親王と西上。
1338年【石津の戦い・藤島の戦い】石津(大阪府堺市)で北畠顕家が、越前(福井県)では新田義貞が相次いで戦死。足利尊氏が征夷大将軍に任じられる。後醍醐天皇は、北畠親房を常陸国(茨城県)に、宗良親王を遠江(静岡県)に、懐良親王を征西大将軍として五条頼元と共に伊予忽那島(愛媛県松山市)を経由して九州に派遣する。
1339年【南朝の後村上天皇即位】後醍醐天皇死去。後村上天皇が即位。北畠親房が神皇正統記を執筆。
1343年北畠親房は常陸国(茨城県)を撤退し吉野(奈良県吉野町)へ。
1347年楠木正成の遺児正行が挙兵。藤井寺・教興寺の戦い(大阪府)、住吉・天王寺の戦い(大阪府)で幕府方に勝利する。
1348年【四条畷の戦いと吉野陥落、北朝の崇光天皇即位】楠木正行は、高師直に敗北する。吉野(奈良県吉野町)も陥落し、後村上天皇は賀名生奈良県五條市)に撤退する。北朝の崇光天皇が即位する。
1349年高師直を排除しようとした足利直義が失脚。尊氏の子義詮が鎌倉から上洛して政務を担う。
1350年【観応の擾乱】足利直義が南朝方となり挙兵する。
1351年【正平の一統】直義は打出浜の戦い(兵庫県芦屋市)で尊氏・高師直を破る。尊氏と直義は和議を結ぶが高師直は殺害される。尊氏と直義は再び対立。尊氏は南朝を味方にするために一時講和する。尊氏は、薩埵峠の戦い(静岡県)で直義を破り鎌倉に入る。
1352年【正平の一統の終了と北朝の後光厳天皇即位】楠木正儀、北畠顕信が京都を制圧(八幡の戦い)、新田義貞の遺児である義興と義宗は、北条時行達と上野(群馬県)で、宗良親王も信濃国(長野県)で挙兵し鎌倉を一時占拠(武蔵野の戦い)して北朝の光厳上皇ほか北朝の主だった皇族を賀名生(奈良県五條市)に連行する。鎌倉と京都も幕府に奪還される。尊氏と義詮は北朝の後光厳天皇を再擁立する。足利直冬は九州から駆逐される。
1358年足利尊氏が死去する。
1359年【二代将軍足利義詮・筑後川の戦い】義詮が将軍になる。征西将軍の懐良親王、菊池武光は、幕府方の少弐頼尚を筑後川の戦いで破る。
1361年【征西将軍府】懐良親王は征西将軍府を太宰府に開き、最盛期を迎える。
1367年【三代将軍足利義満】義詮の死去後、義満が将軍家の家督を継ぐ。
1368年【南朝の長慶天皇即位】後村上天皇死去。長慶天皇が即位。
1370年義満は今川了俊を鎮西管領に任命し、征西将軍府の攻略を命令。
1372年【太宰府陥落】今川了俊は太宰府を陥落させる。
1378年【室町へ移転】将軍義満が京都府室町の花の御所に移る。
1392年【南北朝の合一】将軍義満の主導により南朝の後亀山天皇は三種の神器を北朝後小松天皇に返還。南北朝の合一がなされる。
1394年【四代将軍足利義持】義満に将軍職を譲られる形で義持が就任。
1408年【義満死去】足利義満が死去。
1410年後亀山が吉野に出奔する。
1428年伊勢(三重県)国司北畠満雅が後亀山天皇の孫にあたる小倉宮を受け入れ挙兵するが、北畠満雅は翌年戦死する。
1443年禁閥の変】後南朝勢力が内裏を夜襲。三種の神器のうち、神璽と宝剣を奪う。宝剣は発見されたが神璽は行方不明になった。
1457年長禄の変】南朝皇族の兄弟が吉野で蜂起。赤松遺臣が兄弟の宮を殺害し神璽を奪うものの、地元住民により打ち取られ、神璽は奪い返された。