【長野県】大鹿村

概要

大鹿村は、長野県の南部赤石岳の麓にあり、村内を流れる小渋川は天竜川の支流になります。深い谷を刻む中央構造線の大断層が村の南北を走り、塩水を湧出することもあって鎌倉期は荘園となっています。南北朝時代、後醍醐天皇第八皇子の宗良親王ゆかりの地が大鹿村であり、終焉の地でもあります。延暦寺天台座主であった親王が還俗され、征夷大将軍となって大鹿の地より各地を転戦されました。親王の供養塔である「宝篋印塔」や大河原城址など親王をお守りした山城の遺跡が数か所保存されています。

宗良親王

宗良親王(1311~1385)は後醍醐天皇の第八皇子であり、御生母は歌道の大御所藤原定家の子孫にあたる藤原為子です。親王二十歳の時、比叡山延暦寺の天台座主となり、大鹿村へは興国4年(1343)の冬34歳の時に、香坂高宗に迎えられて大河原城に入られました。

正平7年(1352)足利尊氏討伐の宣令により征夷大将軍に任じられ武蔵野合戦・桔梗ヶ原等に出陣しました。

歌人でもあった親王は「李花集」「宗良親王千首」等の歌集や、「新葉和歌集」の選集があり、小手指原の陣頭歌として詠まれた「君がため世のため何か惜からむ捨て甲斐ある命なりせば」は有名です。親王終焉の地は諸説ありますが、大河原終焉を伝える文書が京都醍醐の三宝院に残されています。

大鹿村 宝篋印塔

宝篋印塔

大鹿村釜沢の宇佐八幡神社境内に宝篋印塔が祀られています。宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経を治め入れる塔とされていますが、もとはインドのアショカ王の故事に倣って、中国の呉越王が作らせた金銅製の塔をいいます。日本へは平安末期に伝えられ、鎌倉中期から石造として墓碑や追善塔に転化したといわれています。

この宝篋印塔の材質は、伊豆石といわれる多孔性安山岩で総高87.9センチ、基礎・塔身・笠・相輪から構成されており、笠の四隅にある馬耳型の角状の突起が特色となっています。大正15年8月来村した京都大学天沼俊一博士によって、「この宝篋印塔は、南朝関係の人々によって宗良親王供養塔として安置したものであろう。」という鑑定がされている。