【茨城県】筑西市

概要

筑西市は、茨城県の西部に位置し、鬼怒川・小貝川などが南北に貫流する肥沃な田園地帯を形成しています。

南北朝時代には、後醍醐天皇が、南朝方の態勢立て直しをはかるため、北畠親房を東国に下向させました。筑西市は、北朝方と対峙しながら転戦を繰り返した北畠親房が入城した関城跡があります。南朝方の立場をとる拠点の関城には、城主の関宗祐と宗政父子が大宝城主とともに南朝軍として最後まで戦いましたが、ついに落城し、宗祐父子は城と運命をともにしたと伝えられています。筑西市には、北畠親房を助け大宝上・関城と呼応し、北朝方と戦い落城し、以後廃城となった伊佐城跡や、北朝方が関城攻撃の際に掘ったとされる坑道跡などが残されています。

関城跡

関城跡 墓前祭
墓前祭

関城跡は、筑西市の南端にあり、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、北部は台地続きで数重の土塁と東から西側の大宝沼に通じる堀割をめぐらす、天然の要害地に構築された城郭である。

興国4年(1343)、関城主である関宗祐は北朝軍と戦い、北畠親房は神皇正統記を完成させたとされる。白河の結城親朝(宗広の子)あてに関城への援軍要請の書状を送るが、親朝は動かず北朝軍についてしまったことから、四方に敵を受けた関宗祐は、ここで親房を重囲の中から吉野に脱出させ、その後落城してしまう。

現在、関城跡には、北朝方が掘った坑道跡、関宗祐・宗政父子の墓、関城之碑が残され、関宗祐父子をたたえ、落城の日を命日として毎年11月11日に関公の墓の前で墓前祭が行われている。

坑道跡
坑道跡

茨城県筑西市関舘地内、大型バス対応駐車場あり